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Title | Artist | Time | Recorded | |
---|---|---|---|---|
1 | Amazon River | Didier Merah | 14:03 | 2019/08/24 |
2 | Sweet Rain | Didier Merah | 13:21 | 2019/10/21 |
3 | Coffee Cherry | Didier Merah | 13:38 | 2019/10/21 |
4 | Soleil | Didier Merah | 13:21 | 2019/12/28 |
5 | Virgin Forest | Didier Merah | 13:30 | 2019/12/28 |
6 | Flying Visitor | Didier Merah | 16:00 | 2020/01/19 |
7 | Mellow Air | Didier Merah | 12:27 | 2020/01/12 |
8 | Mutual Dependence | Didier Merah | 14:00 | 2020/02/09 |
9 | Volcano | Didier Merah | 11:31 | 2020/01/12 |
10 | Ice Age | Didier Merah | 12:05 | 2020/01/12 |
11 | Esperanza 2020 | Didier Merah | 12:17 | 2019/12/01 |
12 | God Spirit of Nature | Didier Merah | 15:51 | 2020/02/09 |
13 | Regenesis | Didier Merah | 03:20 | 2020/02/09 |
2020年4月30日、アルバム『World of Nature』が段階的に各所のプラットホームより配信がスタートしました。
この企画は2018年にリリースした『Wa Jazz』の制作中、同時並行的に心の中で温め続けて来ました。『Wa Jazz』を録音している最中、次のアルバムは南米とかブラジル音楽を起点にしたDidier MerahがDidier Merahになる以前から好きだった音楽のジャンルを再構築した、兎に角ロマンティックでメロディアスな音楽に回帰したいと願っていたのです。
けっしてシリアスなものではなく、肩の力を抜いた軽やかなフットワークのアルバムにしようと思っていにも関わらず、実際に作曲を開始したと同時にAmazonが大きな森林火災に見舞われて行きました。勿論それだから‥ と言うことではなく、出来るだけ当初予定していた音楽作りになるべく寄り添って行こうと何度もクールダウンを試みながらの作業が、その度に挫折。
音楽を作る、と言う作業の原点を何度も見直して行くうちに、これは作曲ではなく「自然神の心の投影」と言う作業の始まりである事に気付きました。今に始まった事ではないのですが、次こそはフットワークの軽いものを‥ と言う夢は常に何者かによって壊されて行きます。私は一体何の為の音楽活動をやっているのだろうかと、その度に頬っぺたを引っぱたいて悪夢から逃れようともがくのですが、自然神の力には到底勝てはしないのです。
次第に精神的にも追い詰められて行き、日本は日本で2019年の夏から秋にかけて大きな災害にも見舞われました。そして2019年の暮れに「Esperanza 2020」を突如再レコーディングしなきゃ、と立ち上がった時、未だその当時は日本国内では余り知られていなかったCovid-19が隣国では既に猛威を振るい始めていた、その時期と重なっていた事を後から知りました。
別件で。私にはリラと言う星に生きた時のかなしい記憶が今も未だ心に在り続けます。この話は聞く人によってはとてもスパイシーな内容に捉えられ、私も私も‥‥ と内容の後だしジャンケンにも悩まされています。ですが私はそういう話を聞く時に、その人に対して必ず「当時の巫女の人数」と「最後に口にしたもの」について質問します。同じ記憶でもそのスタンスによって、回答は違って来ます。なので同一の回答を私は求めてはいないのですが、多くの方々が「同じ回答」を私に求めて来るので、この話をする時に最近はとても身構えるようになったかもしれません。
さて、前置きはこのぐらいにして、音楽解説に入って行きましょうか。
目前に東京オリンピック2020を控えた、日本が少し華やいでいた頃。アルバム『Wa Jazz』と並行してブラジルテイストの旋律を幾つもスケッチしていたのが、丁度2018年夏頃だったでしょうか。Amazon Riverのモチーフは合計20センテンス以上のスケッチに及びましたが、最終的にこの作品が最もAmazon Riverらしさを留めており、このセンテンスからアルバムのストーリーを開始することになりました。
ですが実際にメロディーを追って行くとそれはけっして穏やかで壮大なアマゾン河の風景ではなく、大きな森のあちらこちらから黒い影、煙や火の粉のようなものが立ち昇っています。Didier Merahは基本、マイナーなメロディーは生まないと決めているのですが、かえってメジャーコードの彼方から忍び寄るマイナーの響きの方が、露骨なマイナーコードよりも一層闇を深くたずさえてしまう事もあると言う、これはそんな作曲サンプルになったかもしれません。
『Amazon River』を録音した日付は2019年8月24日。アマゾンの火、そして生き残りを賭けて凛と空に聳え立つ木々たち‥‥。丁度時期的にはアマゾンをはじめ、ギリシャの火事、ロサンジェルスの火事、そしてインドネシア‥‥ 等が同時多発的に火に包まれて行った時期。「火」は私を再びリラ星の悪夢へと引き戻して行きます。私は森や木々、その精霊たちとの親睦が深いのですが、彼等が人類に何等かの警鐘を鳴らしていたのではないかと思いつつも、それをどのようにこの地上に発信して行けば良いのか私なりにとても悩んだ結果、やはりこの方法以外になかったのかもしれません。
どうかこれ以上アマゾンの森が消えずに居て欲しいと言う、心からの叫びをこの作品に込めました。
M1.の「火」から「水」、恵みの雨へと物語は続きます。大きな炎から解放された森の木々たちへ、穏やかな恵みの雨がもたらされて行きます。
水のエレメントが足りなくなる時、私の中に音楽が生まれます。それはいつもの事。YouTubeで「Takemikazuchi」と「Ancient Forest」を配信した時も同様に、日本全体に水のエレメントが不足していました。あの時も私は立て続けに何曲か、水をモチーフにした作品を配信しています。
地球全体に良質な水を行き渡らせる、その代わりが音楽でも出来ないか‥‥ 等と私は日々真剣に考えています。水を音で表す時、私はこれでもかと言う程のペダルを用います。そもそもピアノは多くの楽器の中で唯一残響を駆使出来る楽器ですが、これまでの多くのクラシック音楽の指導者たちはやたらペダルを細かく踏み替える事を教えて来ました。ですがベーシックの音楽の質を変えない限り、確かにこれまでの既存のクラシック音楽で残響を縦横無尽に使い切る事はとても困難でした。
Didier Merahの作品の真骨頂の一つが「ペダリング」にあります。なるべく多くの旋律や和音を一個のペダルに吸収させ、各々の音の始まりから終わりまでを慎重に感じ取り、それを伝えて行く‥。ありそうで実は殆ど無かった奏法が、ここに在ります。
「Sweet Rain」をよ~く聴いていると、雨の中から微かに樹液の香りが立ち昇って来るのがお分かり頂けると思います。それは単純に甘さを超え、リスナーの胸を掻き毟るように自然が持つかなしい苦味が後に長く残ります。この作品を通じて雨の甘味以上に苦味を伝えて行けたらと私は心から、祈りを振りしぼるようにして「Sweet Rain」を弾き切りました。
アルバム『World of Nature』の2曲目『Sweet Rain』と同じ日に収録した作品。コーヒーチェリーの赤い実が燦々と陽の光を浴びて、今にも人の手に摘まれる瞬間を待ち望んでいるような、そんな光景が演奏中に脳裏に広がって行きます。
真っ赤なコーヒーチェリーが太陽の光を燦々と浴びて空を仰ぎ見つつ、それは同時に旅立ちまでのカウントダウンの始まりでもあります。いつかその時を迎えるまでの、短い夏を謳歌するコーヒーの赤い実の心情を描きました。
コーヒーの実は生で口に含むと味覚に痺れを来し、中には幻覚を見る人も居ると言われています。その為なのか、古くは宗教的な儀式にも使われたと言われます。
又、この地球上で長い時間、原種を維持して来たのはコーヒーの樹だけだとも言われています。ですがそのコーヒーの木々たちも最近の気性変動に応じる為、原種の状態をKeep出来なくなりつつあるようです。次第にコーヒーの味も変化し、これまでにはなかった場所に新しいコーヒーが生まれています。
一度人間の改良を施された樹は、以後二度と元の状態に戻ることがないと言われています。
そして最近太陽の力が弱まっています。以前よりもコーヒーの味が希薄に感じる事も多々ありますが、それでも木々たちは互いに情報交換を重ね、原種である各々の遺伝子やエネルギーを大地に刻もうと必死に生きています。
これは真冬の太陽をしんしんと描いた作品です。人にたとえると、あえて病弱な時を選んでポートレートにその状態を刻んで行くような、とてもナーヴァスな作品になりました。ナーヴァスながらも繊細で、これまでの太陽のイメージとは一味違う、光の線や帯、光の粒子までも顕微鏡で覗き込むような世界観を表現出来たかもしれません。
思考を止めて目の前にある光に目を凝らすと、そこにこれまで視たことのない自分自身の過去世までもが投影されて行くような、ある意味平衡感覚を失いながら時空をゆらゆらと浮遊するような不安定なカウントをあえて、作品の中に織り交ぜています。
最近の音楽は小節数に偶数が用いられる事が殆どですが、私はその「数」の概念を一切この作品では放棄しています。そもそも音楽の中で「数える」と言う作業自体が私の中では不自然な作業であり、Didier Merahの作品の多くは殆どカウントなしで演奏されています。なので速度が実は揺れており、小節数やセンテンスが奇数で構成されている作品が多いのです。解説しなければ殆どのリスナーが、この事に気付きません。それだけ、実はとても自然な営みなのかもしれません。
この作品で描かれた太陽は、人間が日常的に見ている太陽とは違う、植物の眼を通して見えている太陽に近いです。なので少し緑がかった光の線が、楽曲の端々に見えて来るかもしれません。それらはとても流動的で尚且つ、定型さえ持たない未知の形状をしています。そんな未知のかたちのない太陽を何百年、何千年‥‥ と浴びて細い樹が段々と大木に育って行く過程を、この作品から少しでも感じて頂ければ幸いです。
森の始まりを描いた作品。まだそこは森と呼べるものは何もなくて、ただただ一面の土の上にかすかに藻や苔のようなものが貼り付いているだけの大地。でも、それは陸地における生命の始まりを意味しています。勿論人間も生き物も何もない世界。深緑色の大地だけが一面に広がって行きます。
では、人間は一体どこから来たのでしょうか? 今日に至るまで多くの説がありますが、私が知っていることがあるとすればそれらが他の星(プレアデスを始めとする複数の星々)から降りて来たと言うことです。勿論他の惑星からこの星に来たのは人類のみならず、後の作品 M06.『Flying Visitor』の中に登場する「空を飛ぶ生命体」もその中の一つかもしれません。
緑の生命体には各々不思議な能力が備わっていて、まだ地上の小さな藻である段階から彼等は強いテレパシーでお互いを認識していたと思います。今いる土地がどのような性質でどのような気候に置かれた場所なのかを、遠くの同種たちにも伝達していました。遠くの仲間たちの居る場所は太陽の力が強い場所である‥‥ 等と言った、人で言うところの雑談全般を彼等はテレパシーでやり取りしていたのだとしたら、現代の人間の多くがもはや失ってしまった能力さえも「藻」が保有していたことになるのかもしれません。
藻の世界は次第に森へと育って行きます。樹々たちは自身には運動能力が皆無であることを知っており、その代替手段としてテレパシーを使って仲間たちと交信したり、外来生物に自らが育んだ木の実を食べさせて、外来生物からも情報を得ていたようです。
生物の居ない頃の始まりの世界。今地球自体がその当時を振り返り、懐かしんでいます。すべてをリセットしてあの頃に戻ってやり直したいと願っています。その為にはどうすれば好いのかと言う、逆説的な進化の道筋を探り、人類の傲慢さを嘆いています。ですが短絡的にその道を暴走することを避け、46億年の歩みを静かに振り返っています。
一度リセットした後にはもう二度と同じ歩みが出来ないことも、地球は知っています。Didier Merahの作品世界の真骨頂とも言える「何もない世界」が、この作品の中に静かに再現されています。聴いている間に、リスナーの方々自身が「無化」されて行くような感覚を得られるでしょうか。
一面の藻と緑、そして水と微生物だけが生息している地球上に突如現れた他の惑星からの客人。客人はさながら鳥と恐竜のハイブリッドのような姿をしています。その珍客たちを地上に送り込んだのは、おそらく高度な文明を持つ星のヒト的存在たち。
※ここでは客人を「トリル」と呼ぶことにしましょう。
トリルたちは当時の宇宙船のようなもので輸送され、多くがヒトの姿をした知的生命体によってある種の虚構の世界があると説明され、そう信じ込まされてこの星 地球の上空を飛行し始めました。そこには一面のユートピアが広がる、そんな世界だと言う期待に胸を膨らませて上空をゆったりと飛行し始めたのですが、いざ‥‥ 地上を見下ろすとそこは何もない世界、一面に緑の藻と僅かな樹々だけが広がる以外何の生命も存在しない殺風景な光景が続いて行きます。
最初の一羽、そして二羽、三羽とトリルたちは送り込まれて行きます。トリルを送り込んで行く知的生命体の側にも理由があり、自身の住む星の環境破壊が進んでいました。いずれその星も生命体が住めない状況になると想定したヒト達はいち早くこの地球に着目し、自身の星と地球との環境が酷似していることを知ることになります。生命を全て移動させる前に先ず先陣を送り込んで、適応性を確認する必要がありました。そこで最初に送り込まれたのが、鳥と恐竜のハイブリッド種の「トリル」でした。
この曲「Flying Visitor」は極めて明るいメジャーのKeyで演奏されれていますが、それは上記に綴った「トリル」たちの期待感と地球の将来性を表現する為であり、必ずしもこの曲の幸先を意味する為ではありません。その為、途中随所にメジャーとマイナーのコードが折り重なって行きますが、それは「トリル」たちの不安や不穏なマインドを暗示しています。
音楽とは摩訶不思議なもので、穏やかで速度の緩いマイナーのバラード形式を一見維持しながらもその中に不安要素を描く音楽も存在します。学術的には色々と説明することも出来ますが、先ずは理論武装よりも聴き手の感覚を緩やかに開いて行くことに私の音楽活動は特化しているので、何より「眠れる、癒される音楽」と言うリスナーにとって都合の好い定義等は完全に取っ払って聴いて頂きたいです。
さて、地球に横暴に送り込まれたトリルたちがその後どのような経緯を歩んで行ったのか‥、その辺りもこの作品の後半にしっかりと描かれています。多くの生命は、自らが送り込まれた環境に適応しながら生き抜く知恵を身に付けて行きます。ヒトもトリルたちも、そこは共通しているかもしれません。
5曲目「Virgin Forest」では森の始まりを、6曲目「Flying Visitor」では地上で最初の動く生き物の始まりを描いています。「Flying Visitor」で半ば強引に地球上に送り込まれたトリルたちはその後繁殖に成功し、そこから第二第三の新しい生命が出現して行きます。ですがそれらはトリルたちを地上に送り込んだ生命体の元の星には存在しない種であり、そこからの地球上の生き物たちは地上最初の種の始まりと言っても良いでしょう。ようやく地球の原形が生まれ、発展を始めた最初の瞬間かもしれません。
空気が次第に濃度を増して、地球と言う星自体が自発呼吸を始めた瞬間のように、私は捉えています。
このアルバムの中では比較的ポジティブな方向性を持つ作品であり、古き良き時代の地球に思いを馳せる人も居るでしょう。それは人類の魂が共通して持つ記憶の断片であり、もしかするとこの作品から今まで嗅いだことのない密度の濃い酸素の香りのようなものを感じ取る人も現れるかもしれません。
音楽とは単純に「耳だけで聴く」ものではなく、その音を聴くことで魂の記憶の扉を開くことが出来る可能性のあるものだと私は確信しています。
濃い空気の中ですくすくと育って行く新しい世界、現代の人類が知らない地球とそこに生まれた生命たちの原形がこの作品の中に刻まれています。勿論時間の概念も今とは違って、移動する太陽や天体が時計となって全ての生き物の感覚にアクセスしている時代‥‥。Didier Merahの「数えない音楽」がここに余すところなく、表現し尽くされています。
永遠の幸せと種の繁栄の祈りを包み込んで描いた前作「Mellow Air」から、この作品「Mutual Dependence」でその安定感が崩れ始めます。それは穏やかさに慣れ始めた生命が段々と進化の速度を緩め、互いの存在に依存し始めた瞬間です。
地上に「トリル」たちを送り込んだ知的生命体の一団はそんな状況をも実験結果の一部として、虎視眈々と異世界からその様子を静観しています。なので知的生命体はまだ、この段階では存在しません。
不穏な空気は互いに依存しながら生息する生命体の中から発生し、それはおのずと地球の自発的な不安を覚醒させて行きます。
リラが自滅を決意した時、リラに生きる多くの生命体がそれを戦争のせいだと思い込んでいました。ですが、それは違っていたと思います。リラと言う惑星自体があの時、自滅を決断したのです。何よりそれはリラに生きる多くの魂を純度の高い状態で温存する為であり、当時あれ以上の各々の生命の霊体の損傷を避ける必要が生じた為に、リラと言う星が生き物としての感覚を持ち自滅を決断し、星が自爆を決意しました。
当時リラの巫女であった私とその他数名は、灼熱の大地の中で神経を麻痺させる植物の種を大量に飲み込んでリラの最期を見届けました。正確には「植物の種」に或る加工を施した別の何かですが、それについては(後出しジャンケンによる偽証を避ける目的で)ここでは触れずに居たいと思います。
「Mutual Dependence」で描かれている「相互依存」、それ自体が良くないわけではなく、そのバランスを欠いた時に何が起きるのかについて、それを音楽で表現しました。この作品では「相互依存」と同時にもう一方で、「避けられないもの」やそれによって起き得る将来の不安をマイナーコードとサブドミナントコードの連続性で淡々と描いています。音楽用語で言うところのドミナントが存在しない音楽なので、聴いた後に不安だけがじんわりと残って広がるコード構成になっています。
至るところで大自然が火を噴き始めます。最初は小さな火、そして次第にそれは巨大になり、点の炎はやがて巨大なマグマとなって地表を覆い尽くします。火の始まりは不穏な未来を暗示しつつも、時折そこに穏やかな一面を見せて行きます。ですが将来的に在るものは、破滅です。
「Volcano」に着手する前から、この作品は古い時代の作風にすると決めていました。私自身が過去にバッハを生きたこともあり、やはりこの作品ではその時代の私の感性を前面に押し出したいと思いました。脳裏にパイプオルガンの当時の音色が蘇り、それをピアノの音色に移し替えながら作曲の作業は進んで行きました。
面白いことに「噴火」を描こうとすると、必然的に脳内に「木花咲耶」姫の魂が絡みつきます。同じエレメントを持つ者同士、それは互いに私の中で共鳴し合います。なのでこの作品では「Tales of Kono Hana Sakuya」の中で描かれたエレメントがバッハの感性と同期しながら再燃しています。
オーケストラに喩えるとパイプオルガンが複数台鳴り響く中にゴングの音色が覆いかぶさり、そこにチューブラベルやティンパニー、ピアノ等が同期しながら加わって行く、そんなイメージが一番近いかもしれません。
楽曲の最後に突如の静寂。絶望と破滅の瞬間を意味します。
地上の多くが火の海になり、それは私が時折視る悪夢の「黒い海」と重なり合います。黒い海の「黒い」ものとは、おそらく流れ出た大量の溶岩でしょう。朝寝室のカーテンを開けるとそこは一面黒い海と化していて、兎に角全身が熱くて熱くてたまらずに窓を開けた途端に呼吸すら出来ない程の熱風にあてられて、そこで気を失う夢‥‥。絶対に現実にはなって欲しくない映像ですが、最近になって私は頻繁にその夢を見るようになりました。
これは予言ではなく、そのような状況を回避したいと願う、祈りの音楽です。このアルバムで唯一、マイナーコードで作った作品でした。人はマイナーを悲しみや怒りだと認識する習性がありますが、まさにその通り。ですがこの曲で描かれるそれは短絡的な意味での怒りや悲しみや絶望ではなく、そこから再起を願う希望を含んだ悲しみだと理解して聴いて頂けたら有難いです。
生きては行けない程の炎と怒りと破滅の後、地上は一面氷の世界を迎えます。氷の下には幾千もの意識や魂、そして生命の欠片が長い眠りのさなかにあります。彼等は生きたまま自らを硬い氷の中に閉じ込めて、再生の時を待っています。それはとてもポジティブな祈りです。では、今地球にその時が訪れたら一体何が起きるのか‥‥。それを思うと氷の世界の静けさに、ある意味とても恐怖を感じます。
長い長い氷の時間の、これは始まりを描いた作品です。トリルたちも形を変えながら進化を遂げたのですが、Volcanoの中に種(しゅ)は完全に死滅しました。知的生命体はこの実験を「成功した」と言い、鋼鉄のような眼差しでその経緯をコンピューターの中に書き残して行きました。
水の世界で進化を遂げた多くの魚類たちも氷の中に閉ざされ、風と星の微かな音だけが行き交う、世界は文字通り氷河期を迎えました。氷河期をピアノ曲にすると、多分これ以上の表現はない‥‥ と思えるところまで突き詰めて行きました。音楽的には「アンビエント」と言うジャンルにもかぶりますが、ピアノで描けるアンビエント・ミュージックの極限を行けたと思っています。
氷の世界とアンビエントは、なぜかとても相性が好いですね。ましてこの作品の演奏中度々用いられているのが、踏みっぱなしのペダル奏法。既存のクラシック音楽では「汚いペダリング」と言われるそれが、この作品の中では見事に新しいジャンルを歩み出し、近未来の芸術作品の域に到達したと言っても好いでしょう。その理由として限りなく少ないコード・プログレッションの連続と、アダジオよりも遅い速度で一個のコードの滞空時間が長いことが挙げられます。
本来ピアノとはこうしてペダルを有効活用出来る、地球上では唯一の生楽器である筈。ですが、多くの作品が目まぐるしく移り変わるコードと人間の身体能力を超えた超絶技巧に作風が傾いた為、こういう手法を用いた楽曲自体が今でも殆ど存在しません。よってそれが「クラシック音楽がつまらない。」と言われる理由でもあり、現に私自身も自分の作品以外に殆ど弾きたいクラシック音楽が見つからず悩み苦しんだ一人でした。
これまで電子楽器メインで演奏されていたアンビエントですが、十分ピアノ一本でもそのジャンルの表現は可能です。楽曲全体を通じて描かれているひんやりと冷たい、長い長い氷の時間とその世界観をこの作品から感じ取って頂けたら幸いです。
氷の下でその時を待ちながら息づく、多くの生命とその意識たち。南極の氷が崩れ落ちている今、この地球上の現実を描いた作品です。‥‥んなわけないでしょう?と言う声が方々から聴こえて来そうですが、これは私が感じたありのままの今の地球の姿でした。
「Esperanza」とはスペイン語で「希望」を意味する言葉ですが、ここで描かれる希望が誰の、どの視点からの希望なのか。それを思うと、混然一体とした希望と不安の二つの感覚が段々と整理が付かなくなって行きます。私がここで描いた希望とは、視点を氷の下に眠り続ける生命とその意識にあてたものであり、もしもそれが現実となった場合には地球の転換期或いは地球の歴史の終焉を意味することにもなりかねないので、「希望」と言う名前をこの作品に残すことが良かったのかそうではないのか、今となってはよく分かりません。
奇(く)しくもこの作品を元の「Esperanza」から再演したタイミングが、隣国で新型コロナ肺炎がじわじわと広がり始めた時期と一致します。これは理由とかそういうものを超えた、説明の出来ない何かを感じてそうなった瞬間でした。
原曲「Esperanza」は2009.11.23に録音されたものであり、その時は「Esperanza」がこのような形に進化するとはゆめゆめ思ってもみませんでした。原曲は、雪の中の教会で祈るPrayerを意識した作品でしたが、その後 2012.09.01 に同曲を私は「September Rain」としてリメイクしています。そして2019年の暮れ、突如この作品が新たなテーマでインスピレーションを得て復活しますが、心情的には何かしら大きな不安に包まれた中で作業が進んで行きました。
氷の下の意識たちは、死んだようでいて実は生きており、その当時のまま今日に至ります。いつの日か来るであろう、頭上の壁の氷解を願いながらそこに閉じ込められていますが、彼等の意識はとても希望に満ちています。かなしい程にきらきらと輝きながら、この世界での復活を待っているから、かもしれません。
楽曲は後半に向けて氷の光が放つきらきらとした世界をそのまま音で表現しており、もしもこの解説を付けずに音楽だけを世界に解き放ったら多くのリスナーが「きらきら、ふわふわとした癒し系音楽」だと誤解することが容易に想像出来ました。なので私はそうではない、とてもネガティブな要素を含んだ作品であることやその理由を、ここで解説する必要があると感じこれを綴っていますが、果たしてリスナーの方々にこの思いは通じるでしょうか‥‥。
私の中の静かな賭け、そして祈りがこの作品の中で炸裂しました。
この作品の原案は、冒頭の曲『Amazon River』と同時に脳裏の中に在りました。と言うことは、既に2018年の段階で私の中に音が存在していたことになります。『God Spirit of Nature』が何を表現しているかと問われたら、少し間を置いた後で私は、
━━ 『これは自然神が地球の葬儀を執り行っている風景を描いた作品である』、
と答えるでしょう。
火の時代、氷の時代、‥‥色々な時代を経て遂には人類が地球と言う星を死に追い遣る時が来る。リラのあの時と同じく、地球も覚醒した魂の救済の為の自滅を決めて、それを実行する時がやがて訪れる‥‥、その後の無と静寂はなんと悲しいのでしょう。
永遠の幸福を祈り続けた自然神の祈りも虚しく、地球もこのままではいつか、リラが迎えた最期と同じ結末を辿るでしょう。神々の中には既にその予感が在り、多くの神々がそれを回避する為に一心不乱に祈り続けています。でも人類の体たらくはとどまるところを知りません。法律も政治も何の役にも立たなくなり、人間は「思考」と言う機能を急激に失い始めています。快楽主義的な人が地上に溢れ返り、今さえ楽しければいいと、後先顧みない人々が急増しています。
いつか地球は、その決断の日を迎えることになるかもしれません。そうなる前の手立ては幾らでもあるのに、それを実践出来る頼みの綱の人間がそれを行動しようとしません。止まぬ戦争、止まぬ核兵器の開発、最近では新型コロナ肺炎からのパンデミック‥‥、その他挙げればキリがない色々な要因のすべては、人類が作り出したものです。
立ち止まって振り返ると言う、ただそれだけが出来ない人類の将来を案じながら、他次元の生命たちも自然神たちも精霊たちも、一度この星をリセットする必要性に駆られながらのカウントダウンはもう始まっています。
この作品では、地球の終焉を予言したかったわけではありません。せめてこの曲を聴いて、もう始まったかもしれない地球の自滅へのカウントダウンを止める手立てがまだ残っていることに、一人でも多くのリスナーが気付いて欲しい‥。そんな祈りを心に思いながら私は、泣きながらこの曲を演奏していたことを思って頂ければ幸いです。
そして一縷の望みが託されました。これは地球の自滅の時、天に解放された魂たちの輝きを描いた作品です。
「あなたがこの手紙を読む頃、私はもうこの世にはいません。」、そんな書き出しで始まる手紙のように、この作品の中に生命は一つも残っていないでしょう。ただ、祈りだけが次の時代に託されて行きます。文字通り、この世界の終わりを意味します。
天に解放された多くの魂たちは、生前の肉体の苦痛を最小限にとどめたまま瞬時にしてアセンションして行きました。その為輝かしい記憶だけを留めたまま、今でも天界を旅するように漂っています。次、自分がどこに生まれ直すか‥‥ 等と考えることもなく、ただ、期待と希望に胸を膨らませながらそこに在る‥‥。それが何秒になるか何日になるか、或いは何百年を経て転生を試みるか等、もはや誰にも分かりません。
私自身もその状況を経験し、そこから「第二の私」が始まりました。そして今日に至りますが、こうして振り返ってみると人間はリラの時から何も変わっていないことに愕然とします。でも、誰のせいでもない。人間とはそういう生き物なのだと自分を宥めています。同じことを繰り返すのも又人間の性(さが)なのか、或いはやはり一歩でも進化の途を行くべきなのか‥‥。それは私一人の力でどうにかなるものではありませんが、何も気付かないよりはまだましかもしれません。
『Regenesis』ではせめてもの再生を祈り、これまで人類が殆ど目にしたことのない「魂」のきらめきを想起させる音楽をしんしんと奏でています。
人類に神のご加護がありますように。
先ず、このアルバムのアートワークは夫が手描きで作成しました。よくよく見ると、今この時期にリリースするアルバムのジャケ写として、最高の作品になったと思います。
2020年で私は57歳を迎えますが、これまでの人生の中でここまで苦悩に満ちたアルバムを作ったことはなかったでしょう。概ね色々な局面を経て、最後は明るい展望の楽曲で締めくくって来たこれまでの作品集とは異なり、今回はまるで刑罰を受けるように追い討ちをかけられ、精神が段々と病んで行きました。勿論私ひとりがそうなったわけではなく、この企画を私にもたらした夫も同様に心身の疲労を訴え始めました。それは単なる日常生活から来る疲労とは異なり、いつ、何によってもたらされた疲労なのかが全く分からないものであり、疲労よりも何よりも私は言いようのない悲しみと落胆のような感覚を止められなくなって行きました。
人間とはなんと無力な生き物だろうかと、今回程その思いにつまされたことはきっとなかったと思います。
「祈りは行動である」、これは夫と同じ共通認識ですが、その祈りを「ただ祈る」以外に他の行動に殆ど移すことが出来ない日々が続き、ただ私に出来ることの一つである創作と演奏以外のすべての祈りの手段を奪われたまま時間だけが過ぎて行きました。
環境の悪化が日に日に深刻になる中、2020年の始まりはけっして明るいとは言えない状況になりました。増えすぎた人口に地球が耐えられなくなり、予期せぬウィルスが地球全土を占領しています。ここまで状況が悪化しても何も変えられない人間と言う生き物の、私もその一人ですが、それでも水面下でバタバタともがきながらこの先の延命の可能性について日夜考え続けています。